障害を持っている人、何らかのハンデを抱えている人に対して「可哀そう」と感じるのは人として当たり前の感覚かもしれませんが当の障害を持つ人はそう思われることに対してどう感じるのか。
私もしょっちゅう「聴こえなくて可哀そう」扱いをされますが……。
どちらかというと可哀そうとは言われたくない
うーん、これはやっぱり人それぞれ感じ方が違うので何とも言えないのですが少なくとも私は面と向かって「可哀そう」とは言われたくないですね。
心の中でそう思われているのは別にかまいませんが、面と向かって言われるのは心理的に抵抗があります。
いや別に反発してるわけではなくてですね。
この「可哀そう」にどうしても上から目線の何かもにょもにょしたものを感じざるを得ないんですよ。なるけまればんがかぴかっぴ的ないきなりだと良く分からない何か。
……古すぎるな……。
いやまあ言われてムキになって怒ったりはしませんけどね?
そういう哀れみは私がいないところで思うだけにして欲しいです。
ですがまあこれは私がそう思うだけのことであって、他の人はどうかわかりません。
中には「私可哀そうでしょ?」をアピールしてる人もいますから、こういうのは障害持ちからしてもちょっと引きます。
ただ、結局のところ人は人に対して何か優越感を感じないと「可哀そう」という感覚は出てこないのじゃないかと思うことが多々あります。
どういう表現なら大丈夫だろうか
私なら「大変だね」と言われるほうがまだ有難いです。
これもいろいろ意見があると思うので、これが正解とは言い難いですが、少なくとも私ならこれでOKです。
「可哀そう」に対して返事をすることは難しいですが「大変だね」なら「そうなんだよー」とか同調できますからね。
「可哀そう」に「そうなんだよ」って同調してたら痛いやつじゃないですか。
そもそも可哀そうアピールって誰得なんですか。
そういうのはドラマや漫画や小説の中の薄幸の美少女だけでよろしい。
もっとも自分から可哀そうアピールはしてはいけない。するもんじゃない。
そして実際に誰から見ても可哀そうな人でも、本人が人として強くいきたいならやはり可哀そう扱いはされたくないのではないだろうか。
だから相沢すずだって「同情するなら金をくれ」って叫んだんでしょう。
おっとまた古いな……。
まあ「大変だね」って言ってくれるなら、大変さを伝えられそうな苦労話ならいくらでもあるわけですから同調しやすい気がしますよ。
あーそういう苦労話もぽつぽつ記事にしていくといいのかな。
え?読みたくない?
ちぇっ……。
でも書くと思うよ。ネタだからね!
まあそれはいいとして。
「大変そう」とか「頑張ってるね」という言葉なら、根底に同情心があったとしても「可哀そう」というよりはいくらか印象が違うように感じます。
人が生きていくうえで、他人と全く同じというわけにはいきません。どうしても差が生じます。
それは身長だったり体格だったり見た目や収入、学歴や出世や運動能力などありとあらゆるところが違います。
でもそれで当たり前です。
私はそれがただ聴力だったというだけの話です。
でも私自身一つ勘違いしないでおこうと思ってるのは
「聴こえない」からと言って「聴こうとしなくてもいい」ということにはならない
ということです。
ただし、物理的に聴こえないのは補聴器を使っても限界があります。
なので、ここで言う「聴く」というのは「意思が伝わるように歩み寄る」という意味です。
相手の言いたいことが何かを理解するように努めるということです。
そういう意味ではこちらの記事に書いたコミュニケーションの話と通じるものがあります。
歩み寄ろうと努力していても伝わらないこともあるのは仕方ないのですが、せめて自分からは精一杯歩み寄るだけです。
結局人はみんな何かに頑張っている
怠惰に生きてる人もいるかもしれませんけれども(笑)
もし仮に優雅な暮らしをして左うちわで日々のんびりと生きているとしたらそれはその人がそれだけ稼いでそういう暮らしをできるように頑張ったからでしょう。二世は認めない。親の金で偉そうにニートしてる奴は知らん。
ハンデがあろうとなかろうと努力する姿は人の心を打つものです。
そういう意味では、どうか「可哀そう」という同情心を表に出すよりは「大変だね」「頑張ってるね」と認めていただける方が助かるような気がします。
そんなこんなで今日もだらだら人生頑張ります。